墓地の基礎知識


各ゾーンごとの墓石配置

Aゾーン軍役夫934基
Bゾーン兵卒1052基
Cゾーン下士官247基
Dゾーン下士官154基
Eゾーン兵卒707基
Fゾーン兵卒1413基
Gゾーン将校155基
Hゾーン野田村遺族会建立169基
Iゾーン破損墓碑塚260基以上
合計5091基以上




主な墓碑

陸軍草創期の入営者の墓碑(辛未徴兵・旧藩差出・壮兵等)
徴兵令施行以後の兵卒および生兵の墓碑 
西南戦争戦病死者の墓碑
(1)兵卒
(2)下士
(3)士官
日清戦争と台湾派兵の墓碑
(1)兵卒
(2)軍役夫・職人・看病人など
日露戦争の墓碑
(1)兵卒の個人墓
(2)合葬墓
満州事変~上海事変の戦没者墓碑
(1)個人墓碑
(2)合葬墓
⑦納骨堂(忠霊堂)
⑧外国兵俘虜の墓碑
(1)清国兵俘虜
(2)ドイツ兵俘虜
⑨下田織之助の墓(最古の墓)
⑩旅団長今井兼利陸軍少将の墓
⑪軍医監堀内利国の墓
⑫南河内郡野田村遺族会建立墓碑
⑬破損墓碑塚
⑭「陸軍省管轄」の標柱






①陸軍草創期の入営者の墓碑(辛未徴兵・旧藩差出・壮兵など)

陸軍草創期に入営した兵卒らの墓碑が並ぶ一角

《説明》

 陸軍草創期に入営した兵卒の墓碑はFゾーンの南部、西から6列ほどに集中して並んでいます。これらは、明治3(1870)から6年までに死没した兵卒らの墓碑群で、約140基あります。

 これらの墓碑は、明治6年徴兵令制定以前には大阪が日本陸軍発祥の地であったことを示すとともに、政府直属軍の確立と兵数確保のため政府が試行錯誤を繰り返したことも物語っています。草創期陸軍の姿を知る上で、全国的にも貴重な歴史遺跡と言うべきでしょう。ただし、現在では、墓石の風化や表面の剥落が進行し、文字は読みにくくなっています。

 集められたのは西日本を中心にする広い地域からでしたが、なかでも石川県・奈良県・和歌山県・名東県(現徳島県。一部淡路島を含む)・愛媛県からたくさん集められたことがうかがわれます。兵営では、各地から集められた兵卒たちが入り交じって生活し、伍長・軍曹など下士の指導で厳しい訓練を受けていました。

《この時期の墓碑の特徴》

・墓碑の側面に「庚午(こうご・かのえうま)」「辛未(しんび・かのとひつじ)」「壬申(じんしん・みずのえさる)」といった干支が記されています。

・墓石の形は少し幅広のかまぼこ形で、表面には「兵卒」「軍曹」といった階級の表示がなく、名前だけに止まっています。なんとなくゆったりした感じがあります。

・墓碑の配列は向かって右側(南)から左側(北)にむかって横にイロハの氏名順(1928年の移転作業の結果)。墓石の右側面には出身地・生年月日・親の名前・履歴・死亡年月日など、小さな文字で詳しく記述されています。士族中心に集められたことを反映し、側面に「士族」と表記された墓碑が多い。

以下、いくつかの個人墓碑を紹介します。

今川昌造の墓碑

 文字通り草分けの人。側面の文字は上部が剥落していますが、庚午(明治3年)11月に応募したこと、砲兵第1大隊馭者だったが、辛未(明治4年)11月12日に病没したこと、年齢は20歳であったことが分かります。

今井善吉の墓碑

 辛未徴兵の方。摂津国東成郡今福村(現在大阪市)、農茂兵衛の子、弘化丙午(弘化3年=1846)に生まれ、明治辛未(明治4=1871)2月応徴、歩兵第3聯隊第2大隊補備小隊に配属、同年7月有馬仮病院で死没。26歳であったと記されています。ちなみに大阪鎮台で聯隊制が敷かれるのは明治7年(1874)はじめのことだからこの記述には疑問が残ります。それにしても、辛未2月応徴というのは、まさに辛未徴兵であったことを示しています。

井原安太郞の墓碑

 旧藩差し出しの兵。紀伊国日高郡三十木村農家の生まれ、辛未(明治4)12月に応募、歩兵10番大隊兵卒、壬申(明治5年)11月12日病没と記されています。時期から見て廃藩置県によって藩が廃されたあと、大阪鎮台に差し出された人物であることが分かります。なお、藩兵であった人物の身分が農となっているのは、和歌山藩が身分にかかわらず兵を徴集する交代兵制度を実施し、日本の徴兵制実施の先駆けとなっていたことを示すもので、これまた貴重な記録です。






②徴兵令施行以後の兵卒および生兵の墓碑 

Fゾーン南側、東から西を見た景観
 Fゾーン北側、西側から東側を見た景観。遠くに南側も見えている。

《説明》

 1874年(明治7)徴兵令が実施に移されて以後、鎮台の置かれた大阪で死没した兵卒の墓碑群です。Fゾーン南側で西から7列目以東、および北側の西半分ほどに、あわせて1000基以上並んでいます

 1872年11月に徴兵の詔、1873年のはじめには徴兵令発布と続いて、兵役は国民の義務とされました。徴兵令施行後は、それまで士族が多かった鎮台の雰囲気も平民が増えて、変わっていったと思われます。

 ただし、このころの徴兵令では、一家の戸主とか代人料を払っているとかいった免役規定もありましたので、実際には不平等なものでした。しかし、それでも男子は翌年には満20歳を迎えるという年齢になると徴兵検査を受けます。そして、体格に優れた者から軍隊に徴集されることとなるのです。拒否は認められていません。

 旧真田山陸軍墓地には、その若者たちの墓碑がこのようにたくさん並んでいるのです。たしかに、1874年には佐賀の乱、1877年には西南戦争がありました。特に西南戦争は大戦争でした。しかし、それを除けば鎮台兵を動員した本格的な戦争はなかった時と言っていいでしょう。にもかかわらず、このようにたくさんの墓碑が並んでいるのです。

 ちなみに、兵卒の死亡率は、伍長・軍曹などといった、軍隊生活に慣れた下士階級にくらべて高いものがありました。

 なかでも、入隊後6ヶ月間を「生兵(せいへい)」とされ、兵卒になるための基礎訓練をたたき込まれている期間中に死去する人の墓碑の多さには目を引かれるものがあります。生兵制度は1874年(明治7)の規則(生兵概則)に基づき、1875年から1888年まで存続したものです。なぜ、兵卒はこのように大勢命を落としたのでしょうか。

 その原因として考えられるのは、軍隊での厳しい訓練や兵営生活における上級者からのしごきやいじめに起因するストレスや事故、さらには、感染症や脚気などといった病気の広がりがありました。

 以下、一つ一つの墓碑を見ていきながら考えてみようと思います。

脚気で死没した人の墓碑

 ここには、明治16年5月入営、17年7月脚気症にて入院、療養中死去したとあります。

巡査と争闘して死んだ兵卒の墓碑 

 この人物は、明治14年5月徴兵にて入営、明治17年10月巡査と争闘して傷つき、鎮台病院で死没と記されています。

重禁固中に脚気に罹って死没した人の墓碑 

 この人物は、明治14年5月入営、11月二等卒拝命、その直前重営倉20日間入り、今度は外出先で飲酒、酔って巡査の鼻から出血させ、再び重禁固入監中に脚気に罹って死亡したとあります。

生兵の墓碑

 この人物は、明治11年4月入隊、まだ生兵であった9月に中山寺村鎮台病院で死去と書かれています。

 徴兵制度は、日本の歴史に大きな影響を与えました。この制度によって軍隊に入った若者は、戦時下は言うまでもなく、平時においても思わぬ死を招くことが少なくなかったのです。日中戦争や太平洋戦争終結までの日本の歴史において、このことをしっかりと心にとめておくことはとても大切なことと思います。






③西南戦争戦病死者の墓碑

Bゾーン南東側より。兵卒の墓が画面いっぱいに広がり、写真の右側にも小さく見える。
 
Cゾーン西側より。下士の墓が写真に見える奥の方5列ぐらいに広がっている。

《説明》

 1877(明治10)年2月に勃発した西南戦争は維新政府成立後最大で、かつ最後の大規模な内戦でした。政府は、かつて維新の指導者であり、維新後は参議兼近衛都督を務め、現に陸軍大将である西郷隆盛を押し立てて攻めてくる士族兵らを鎮圧するため、全力を挙げて軍を動員しました。政府軍(官軍)の数は6万人に上ったと言われています。

 さて、大阪ですが、熊本・大分・宮崎そして鹿児島県など九州各地で戦闘が続いている間、大阪は政府軍最重要の後方拠点となりました。政府首脳が大阪に詰めてさまざまな指示をしたほか、全国から集められた部隊がここで戦時編成され、武器・弾薬・食料その他の軍需品とともに戦地へ送られたのです。また逆に、戦場で傷を負ったり、病気にかかったりした兵士や士官たちは、ここに後送され、大規模につくられた大阪陸軍臨時病院などで手当てを受けました。しかし、手当の甲斐なく亡くなる者も少なくありませんでした。彼らは、所属する部隊にかかわらずここ真田山の埋葬地に葬られたのです。士官・下士官・兵卒を合わせ、総数は900人を超え、九州各地に創られた官軍墓地群と比べても最大規模となりました。その中には戦争終結後、凱旋する船中で広がったコレラに感染して死んだ人々もたくさん含まれていました。彼らは、死後、病気の感染が恐れられ、すぐに火葬されたのですが、墓碑はここに建てられました。

 死者は、兵卒・下士そして士官に区分され、墓地内のそれぞれの区画に埋葬されています。それぞれの区画において仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本の各鎮台、近衛歩兵あるいは新撰旅団など日本中から集められた人びとの墓が立ち並んでいます。それを見ると、官軍がいかに全国の力を集めて戦ったことか、よくわかります。

 また、墓碑の側面には「鹿児島県賊徒征討之役」と彫込まれていることにも注目してください。政府がこの戦争をこのように明治政府に刃向かう反乱兵を討伐するいくさと位置付け、正当化していたことがよく見えてくるのではないでしょうか。以下、兵卒の墓碑、下士の墓碑、そして士官の墓碑に分けて見ていくことにします。

③(1) 兵卒の墓碑
兵卒の墓碑はBゾーン東側の南北一帯、およびFゾーンの南側一部に立っています。

石川県・山口県……、探して下さい。日本の各地から来た人の墓が並んでいます。
従軍中豊後国佐伯で脚気を発症し、大阪陸軍臨時病院で死去した兵卒の墓碑。

 21歳や22歳で亡くなっている人が多い中で、この人物は26歳であったことが記されています。

教導団生徒の墓(下士への夢を抱いていた者か)
24歳一等卒の墓

 有名な田原坂の戦いで負傷し、大阪臨時病院で死亡しています。

北海道開拓使に所属した屯田兵の墓も
士官従者、軍役夫の墓

 このような人物もいたのですね。

③(2)  下士の墓碑

Cゾーン、西から東を望む。
下士の戦病没者墓碑はこの写真奥側から5列目ぐらいまでの幅で立っています。

《説明》

 西南戦争では、戦場で十数人の兵卒を直接指揮する伍長・軍曹などといった下士階級の者も多数死没しました。下士階級の者は、陸軍草創期から入営し、兵卒期間を終えても軍を去らず、なかば職業化している者が多かった。士族出身者も多かったのです。1874年(明治7)勃発した佐賀の乱に出征し、帰阪後兵卒を指導して西南戦争に出征し死亡した者もいます。

墓碑は兵卒に比べて一回り大きいが、見られるようにほぼ同じ形です。

陸軍伍長田村小二郎の墓碑

 3月25日、肥後国滴水村で負傷し、4月22日大阪の臨時病院で死去。21歳と7ヶ月でした。

③(3) 士官の墓碑

西南戦争に出征し、帰らぬ人となった人物は尉官以上の士官にもいました。

陸軍大尉溝部素史の墓(Gゾーン)
 

 この人物は、入営の始まりから死没する直前まで、故郷の親に手紙を書き、軍隊での昇格に期待を寄せていました。職業軍人です。戦場で負傷し、大阪に後送されて治療を受けましたがその甲斐なく死去しました。






④ 日清戦争と台湾派兵の墓碑

④(1) 兵卒の個人墓碑

整然と並ぶ兵卒の墓碑群(Eゾーン。ここには707基の個人墓碑が並ぶ)

《説明》

 1894~95年(明治27~28年)の日清戦争は、朝鮮の支配権をめぐって清国を相手に戦われました。この戦争は、初めての本格的対外戦争としてよく知られています(1894年7月25日~95年4月17日)。しかし、その戦闘規模は、その10年後に戦われた日露戦争と比べはるかに小さなものでした。日本軍人と軍属の被害は、戦死1,132人、戦傷死285人、病死11,894人、合計13,311人(参謀本部「明治二十七八年日清戦争」)とされています(軍夫の被害は、これとは別)。

 この数字は、論者によっていろいろ差がありますが、まずこのような数字と考えていいようです。戦死者数と病死者数は驚くべき対比を示しています。なお、病死の内訳は、1898年までで完了するとされた台湾統治のための派兵(実際はこの後もずっと続きます)とあわすと20,159人、うち脚気以外が16,095人であり、その内訳としてはコレラ・消化器系疾患・赤痢・腸チフス・マラリアなど、伝染病死がほとんどとなっています。

 大阪に拠点を置いた第四師団は、動員されて大陸に渡ったのですが、上陸したときには講和条約が結ばれたあとで、戦闘は終わっていました。したがって、戦闘もなく、死亡者も出なくて済んだはずでしたが、占領地の警備と戦後における台湾領有のための派兵において多数の死没者を出しました。台湾現地住民との対ゲリラ的戦闘死者を除けば、ほとんどは病死したと考えるべきです。

 外国ないし外地で死没した者については、新たに埋葬規定が作られていました。すなわち、外地で埋葬し、帰国に際し、それを荼毘に付し、遺族に返すことになっていたのです。第4師団死没者についても遺骨を遺族の元に返しました。戦没者を出した村の共同墓地などでは、戦没者の記念碑を建て、その栄誉を称え始めました。それを見た軍は、戦没者の永久の栄誉を保障するために陸軍墓地内にも戦没者の個人墓碑を建て並べることとしました。遺族に交渉して遺骨を分けてもらうこととし、それがかなわなくても、墓碑は建てることとしたのです。現在整然と立ち並ぶ墓碑群はこうしてできました。

 この墓碑の側面には、本人の所属部隊名・死没地名と病院名・死没年月日などだけが記載されました。それまでの個人墓碑が、出身地や親の名前・死没原因などを明記していたのとは大きく変わりました。ここに、墓碑を建てる目的に大きな変更が加えられ、戦没を称える方向が出現していることを見て取ることができるのではないでしょうか。

④(2) 軍役夫・職人・看病人などの墓碑

日清戦争と台湾派兵軍役夫等の墓碑群(Aゾーン。926基の墓碑が並ぶ)

《説明》

 軍役夫とは、戦争遂行に欠かせない物資の運搬、傷病兵の世話・後送、兵站地での物品販売など、軍の組織の不備を補うために、民間に業務を委任したことに由来します。日清戦争では15万4千人に上る軍役夫等が口入れ屋を通したり、軍から直接雇用されたりして就業していました。彼らはあくまで民間人として扱われたため、軍もきちんとした記録を持たず、約7,000人が病死したと伝えられてはいますが、その実態は明瞭でありません。

 真田山陸軍墓地には、写真のように個人墓碑が建てられていますが、これは真田山陸軍墓地に限られています(ただし、名古屋では死没者の氏名を彫込んだ碑が立っています)。建てられた背景やねらいも不明で、墓碑にも、職名と氏名のほかには、死没地や病院の名前以外には記されていません。ただし、「埋葬人名簿」には出身地まで記載されていますので、それとの対比も含めた今後の研究が期待されます。

 なお、台湾総督府から、台湾で死没した者については、内地に遺骨等は送らず、台湾に埋葬することとされました。そのためこの年以後については、墓碑は存在していません。

軍役夫東村安次郎の墓
看病人武内孝太郎の墓
臨時台湾鉄道隊馬丁岩橋嘉吉の墓





⑤ 日露戦争の墓碑

⑤-1 兵卒の個人墓碑

日露戦争での戦没者兵卒の個人墓碑。Fゾーン北側で、東側手前より奥9列ほどに210基前後の兵卒の墓碑が並んでいます。

《説明》

 

陸軍墓地が語る戦争の悲惨さ 

 日露戦争では、無線電信が利用され、戦場では大砲と機関銃あるいは新式火薬などが大量に使用されるなど、近代工業と科学・技術が戦争の行方を決める力となってきました。それに対し、防御体制は遅れ、死傷者数は急増していきます。日本は戦争の期間を通して108万人を動員し、急遽4個師団を増設して合計16個師団として戦いましたが、戦没者は84,435人に上りました。戦争の形も大きく変わっていきます。

 戦場では一つの戦闘で多数の死者があっという間に生じました。大阪に拠点をおいた第4師団は基本的に第2軍に属し、金州から奉天に至るまで、一貫してロシア軍主力との激戦に参加し、一部が第3軍に属して旅順攻略に参加しました。その結果、死没者数は、第2軍で3,490人、第3軍で864人に上りました。

 旧真田山陸軍墓地には、1904年5月26日敢行された南山要塞の攻略戦における死没者墓碑が85基(うち3基は推測。ただしほとんどが第8聯隊所属)。8月22・23日の旅順蟠龍山での戦闘に関して57基(うち4基は推測)、9月2日遼陽付近の戦闘に関して59基が数えられます(うち1基は推測)。一つ一つの戦闘が多大な犠牲者を生み出していたことは明らかです。

 とくに、第3軍における蟠龍山の戦闘では後備歩兵第4旅団に属する後備歩兵第8聯隊・同第9聯隊そして第38聯隊等から死没者を多数出しています。後備兵とは、予備役までの兵役を終え、帰郷して一家を構えていた者の多い、いわば社会人部隊であり、戦地では後方での任務を課せられる存在でした。日露戦争では、そうした部隊も大きな被害をこうむっているのです(冨井恭二「旅順要塞攻略戦―後備歩兵第九聯隊の壊滅―」『兵士たちが見た日露戦争』雄山閣、2012年)。

戦没者数に比べて少ない個人墓碑の建立 

 先に見た個人墓碑の建碑状況は、言うまでもなく戦闘の激しさを示すものです。しかし、公的な記録によれば、たとえば、南山の戦闘では第8聯隊だけでも150人、第37聯隊では52人が死んでいます。04年10月初旬の沙河会戦では、第4師団も247人の戦死者を出していながら(冨井恭二「沙河会戦から対陣へ」『日露の戦場と兵士』)、その墓碑は5基にとどまっています。さらに、もっと膨大な死者を出した05年3月奉天の会戦については、わずかの14人を除き墓碑が建てられていないのです。ちなみに、旧真田山陸軍墓地には、1904年分315人、1905年分90人の個人墓碑建立が判明しています(「埋葬人名簿」)。しかも、この数字の中には戦時以外の時期に属する死没者も含まれますので、実数はもう少し少なくなるものです。奇妙な現象ですが、事実です。

なぜ、こんなに個人墓碑の建立が少ないのでしょうか。とりわけ、第37聯隊関係の個人墓碑が少ないのは気になるところです。実は、これは、戦後合葬墓碑が建立されたことと深く関わっていました。項を改めて検討してみましょう。

⑤-2 合葬墓碑

右から士官・准士官・下士・兵卒の戦病死者合葬墓碑 墓地の西部、最南端。奥に見えているのは真田山小学校。階級によって墓碑の大きさが異なっているのがわかります。

陸軍墓地への埋葬原則 

 陸軍では、戦争が始まって少しのちに「戦場掃除及戦死者埋葬規則」を制定し、それにもとづいて戦死者の遺体を捜索・収容し、戦場で火葬もしくは土葬に付し、仮埋葬することとしました。また、後日、遺骨・遺髪さらには遺留品を内地の陸軍墓地に送って埋葬し、遺族等の申し出があればそれらを下げ渡すことができるようにしていたのです。もっとも、遺骨・遺髪あるいは遺品等を遺族等に下げ渡した場合にも陸軍墓地に墓碑を建てることともしていました。要するに、陸軍墓地に戦没者の個人墓碑を建て並べ、戦没者を慰霊し、顕彰していく場にしていこうとしていたのです。これは10年前の日清戦争での対応を踏まえたものといっていいでしょう。

合葬墓建立の申請 

 しかし、日露戦争では陸軍の想定を遙かに上回る多数の死没者を出しました。第4師団長は戦後1906年(明治39)3月、この事実を指摘し、戦後における陸軍墓地内における個人墓碑の建立を取りやめることを申請しています。すなわち、第4師団でも「仮埋葬していた遺骨を凱旋に際し持ち帰っていたのだが、あまりに多数であり、個別の墓碑であれば、費用や手間からみても大変であり、もし、一つの墓碑に戦死者名等をいちいち彫っていくとしても異様なものとならざるを得ない」として、個人墓碑ではなく、合葬墓碑の建造を申請したのです(第四師団「遺骨合葬の件」―アジア歴史資料センター)。このときの申請書には「別ニ合葬ノ原簿ヲ備置度」と記載されていました。これで、石への彫り込みに代えるとしたのでしょう。この第4師団長の意見は、同じように多数の死没者を抱えていた他の師団からも賛同を受け、全国的な合葬墓建立の流れをつくりあげる先鞭となりました。

 こうして、1906年11月には真田山陸軍墓地に、向かって右から士官・准士官・下士・兵卒の階級別に少しずつ小さくなる4基の戦病死者合葬墓が建てられました。

陸軍墓地のありように大きな変貌 

 合葬墓碑の建造は、全国の陸軍墓地のありように大きな変化をもたらしました。合葬墓碑の碑面には戦争の名前は記されましたが、戦没者の氏名をはじめ戦没者に関する具体的な情報は何も記されませんでした。写真で分かるように、墓碑は戦争に参加した第4師団の戦没者を全体としては顕彰していますが、個人の顔は、その中に埋もれて見えなくなったのです。

 ちなみに、日清戦争に関わっては広島比治山陸軍墓地とか豊橋の陸軍墓地など個人名を彫込んだ合葬墓碑が各地に作られています。しかし、日露戦後は、日清戦争で示された、個人の名前等を彫込んだ合葬墓といった形を踏襲することもできなかったというわけです。

 ただ、合葬墓碑はいったん作ってしまうと、師団単位で慰霊顕彰行事を行なう上では、大変やりやすくなったことも事実です。合葬墓碑の前面には一定の広さを有する広場を確保し、師団長以下それに向かって敬礼する形ができあがってくるのです。一方、市民も交えた招魂祭のような伝統的な催しは消えていき、戦没者の個人墓碑も、1931年満州事変まで建立されなくなっていきました。

戦死者顕彰の国民意識

 戦争が始まり、戦場での日本軍勝利が伝えられるようになると、国民の間では広く戦争を支持し、国威の発揚を実現するよう願う意識が勃興し、戦死者を顕彰する動きが沸き起こってきました。1904年7月15日には、南山での戦死者を中心にする第8聯隊主催の合同葬儀が大阪第8聯隊練兵場で大規模に開かれています。また、大阪市内の有力な町が連合し、町内から出た戦死者の町葬を真田山陸軍墓地で実施し、その都度おおぜいの参拝者で賑わいました(奥田裕樹氏のご教示)。真田山陸軍墓地を訪ね、戦没者の墓碑を参拝してそれを情感たっぷりの記事にする新聞も出てきます(中下秀夫「『朝日新聞』に見る日露戦争」『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』)。日露戦争は、日本人の間に広く国家意識を巻き起こしていったのです。

歩兵一等卒川口市太郎の墓碑(Fゾーン北側)  明治37年5月南山攻撃戦で戦死したとあります(中下秀夫「『朝日新聞』に見る日露戦争―戦死者家族訪問記」『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』)。
陸軍中尉宮津隆成の墓(Gゾーン北側) 南山の戦いで勇戦し戦死したことが、当時大阪で有名な漢学者近藤元粋の撰文で書かれています(小田直寿「近藤元粋撰の宮津隆成墓碑銘―其れ亦た以て瞑す可きかな」『旧真田山陸軍墓地、墓標との対話』)。
 

地域の戦争記念碑・顕彰碑 

 一方、日露戦後には、日本の各地域において日清戦後をはるかに凌駕する規模で戦争記念碑や忠魂碑等が、その土地のよき場所を選んで競うようにつくられ、その地域出身者の名前が彫り刻まれていきました。戦死者や従軍者を通し、日本の行う戦争が地域で受け入れられ、記念され、それに参加した個人が地域の名とともに顕彰されることとなったのです。

 村や町あるいは市の墓地には大きな戦死者個人の墓碑や記念碑などが遺族や有志の手によって建てられるようになりました。彼らは、地域における従軍者の面影の記憶とあいまち、それぞれの地域で日本の大戦争に身を捧げた人物として大きな名誉を受けることとなったのです。ただし、戦場や軍隊の中で彼らがどのような境遇に置かれていたのか、悩んでいたのか、病気にはかかっていなかったのか、家族はどうであったのか、もしそこに不都合な事実があったとしても、あるいはなかったとしても、それらが記されることはありませんでした。

兵庫県伊丹市北村にある「皇軍義戦忠勇碑」
大阪府池田市神田地区の墓碑に並ぶ「征露戦死故○○」と表記された墓碑群





⑥ 満州事変に関わった兵士らの墓碑

Bゾーン南部の東側(昭和最後、戦没兵士の個人墓碑群。2列にわたって並ぶ)

《説明》

満州事変について 

 1931年(昭和6)9月18日、中国東北部である満州に日本が経営権を有していた南満州鉄道奉天駅(現瀋陽)近郊の柳条湖において線路の爆破事件があり、鉄道警備に当っていた関東軍は満州に影響力を持っていた張学良軍が関与しているとして、軍を動員し、やがて満州全部を軍事的な支配下に置き、翌年3月1日には五族協和を謳う「満州国」の建国を演じました。戦後になって日本人が知ることになったのは、実際にはこれらはすべて関東軍将校による謀略だという事実でした。

 満州事変には、朝鮮におかれていた朝鮮軍も政府に同意を求めることなく(すなわち天皇の同意もなく)無断で国境を越え満州に進軍しました。この朝鮮軍第20師団歩兵第77聯隊には大阪出身者も少なからず含まれていました。この越境出兵により大阪出身者にも戦没者が出たのです(1932年12月末までに19人)。

 満州事変は、第1次世界大戦後長く続いていたデフレーションに苦しんでいた日本経済にとってカンフル剤となり、国内の産業活動は急速に回復軌道をたどっていくことになりました。日本では、軍部の行動を支持する声が急速に広がり、国際協調を求める動きは強い批判を受けることとなります。1932年5月15日海軍将校が首相官邸を襲い犬養首相を射殺すると、政党内閣は危機を迎え、翌年3月国際連盟脱退へと続き、上海・熱河省などへの軍事行動を展開するなど中国への軍事介入が続き、軍国主義が力を持ち始めていきます。日本国内では「非常時」が叫ばれ、この後15年も続く長い戦争の時代を進み始めていくのです。

満州事変の戦没者と旧真田山陸軍墓地 

 旧真田山陸軍墓地には、Bゾーンの南側、西地区を中心に、住所を大阪市や大阪府とする者などで、1931年(昭和6)11月から翌年1月にかけて満州及び朝鮮の各地で戦没した兵士の個人墓碑が13基立っています(上の写真。2列並んでいます)。ただし、満州での戦闘は政府が定めた満州事変の終了としての1933年5月をこえても実際上は続いており、墓碑も何基か建てられています。最初の13人のうち2人は所属が第77聯隊、一人は78聯隊と記され、聯隊名不記載が10人となっています。おそらく、そのほとんどは第77聯隊所属の兵士でしょう(「埋葬人名簿」および『歴博墓碑銘文一覧』)。

 ちなみに、1897年(明治30)制定の陸軍埋葬規則では、外地で戦没した者は編成地にある陸軍墓地に個人墓碑を建てることとされていました。しかし、この満州事変での戦没者たちは、遺族の特別の願いによって出身地の大阪に所在する真田山陸軍墓地に遺族の費用で墓碑を建てることが認められたのです(横山篤夫「墓碑から見つめる日本の軍隊」『陸軍墓地から見る日本の戦争』51ページ以下)。そのことによって、これらの墓碑は他の時期の墓碑とは違った形状(花立の設置、設置者の氏名表記など)を持つこととなりました。戦死した者の名誉を遺族の暮らす近くの陸軍墓地の中に示したいという国民の願いがあり、それを軍が聞き届けた形をとったのです。ここには、満州や中国大陸における軍の行動に期待し、それに寄り添い支持する国民意識のありようが示されていたのです。

故陸軍歩兵上等兵四至本直次郎の墓碑 側面に昭和七年六月七日満州奉天省臨江県帽子山において匪賊討伐に従軍激戦中胸部頭部に鎗創を受け戦死。享年二十二歳」とあります。

満州事変戦没者の合葬墓碑

 旧真田山陸軍墓地には、満州事変に関わる立派な合葬墓碑がこれら個人墓碑とは別に一基建てられています。その合葬者名等は日露戦争のそれと同じく碑面に表記されず、また合葬墓誌も作成及び所在ともに不詳のままです。ただ推測としては、これは、おそらく先に述べた大阪出身で満州事変に関わる戦没者をまとめて顕彰するものとして建造されたと考えていいでしょう。建造は1934年(昭和9年)9月と記されています。

 満州事変の合葬墓碑は、日露戦争の合葬墓碑が階級別だったのとは違って1基にまとめられています。その理由についての説明はないのですが、軍としては満州事変の意義を明瞭にし、それに関与した第4師団関係将兵の戦病没を顕彰しようとしたものだったと考えていいでしょう。陸軍としては、第4師団からも顕彰すべき戦没者が出た事実を記念として建碑しておきたかったというわけです。

満州事変戦病没将兵合葬碑





⑦納骨堂(忠霊堂)

《説明》

 この施設は大阪府仏教会の寄付によって1943年8月に竣工し、陸軍に献納されました。堂内には、1937年7月に始まる日中戦争から1945年9月降伏文書調印によって終結するアジア太平洋戦争まで、大阪に拠点を置いた第4師団管区の戦没者8249人分の分骨が合葬されています。

 全国の陸軍墓地にはこのような施設は44設置されていますが、この真田山陸軍墓地にある納骨堂は最大規模と言っていいでしょう。ちなみに、石造で塔の形をしたのを「忠霊塔」、木造で堂の形をしたのを「忠霊堂」と呼んで区別しています。この忠霊堂は、おそらく戦後になってからと思われますが、「納骨堂」と呼び慣わされてきました。

 真田山陸軍墓地内の忠霊堂(納骨堂)については、2010~12年度の3カ年にわたって文科省科学研究助成金を得て安置された骨壷や骨箱がすべて調査され、分骨名簿が作成されました。最初に記した8249人分の分骨という数字もこのとき判明したものです。

納骨堂の外観(正面南向き)

 土台上からの高さ8.98㍍、間口22.11㍍、奥行7.98㍍、堂内の面積176.4㎡。正面の扉を入ると、奥まったところに祭壇、壁を隔てた左右に遺骨の安置室が広がっています。追悼の儀式は、正面扉を開き、納骨堂前面の広場も使って行なわれます。

納骨堂内部の遺骨安置室

 床から天井まで約5.4メートルの高さがあります。横は約2メートルごとに仕切られ、13段となる棚が室内壁側と内側いっぱいに並んでいます。この写真には右側に西側の壁棚、正面に北側の壁棚、そして左側には柱棚が見えます。

 前面に見えるベニヤ板は、阪神淡路大震災(1995年)の経験を踏まえ、震災時に骨壷等が落下するのを防ぐために設置したものです。

骨壷の配列状態

 「カ」の字を記した白いプレートは2010年度から始められた納骨堂悉皆調査に際し、付けられたものです。位置は、下の配列図から判断してください。建造後初期に配列した棚のようで、骨壷同士の間隔もゆったりしているところから、まだ、戦没者が急増するとの予感はなかったときのものかもしれません。

棚の配列図

いろいろな納骨容器

1 .分骨袋(この袋の中に骨を納める木製もしくは陶製の容器が入っている)
2.陶器製骨壷(蓋を粘着テープで固着していないタイプもあります)
3.布で包まれた陶器製骨壷 
4.骨箱(上部の蓋の1箇所に小さな釘を打ち、蓋が水平に旋回できるようにしている。遺骨がなくて写真・位牌などで代用するものも多い。)

 いずれも高さは12センチ程度。

《納骨堂の創設》

 いま「納骨堂」と呼ばれている大きな建物は、1943年(昭和18)8月大阪府仏教会が寄付を集めて建造し、陸軍に献納したものです。その後戦後に至るまで「忠霊堂」あるいは「仮忠霊堂」と呼ばれていました。当時は人の死を悼み、仏による救済や人の生きる道を教えていた仏教界も、東アジアの各地で国家の名において繰り広げた戦争で生じる無数の軍人・軍属の死を顕彰し,戦争遂行に向けた国民の精神統一を図っていたのです。それは、各府県に護国神社を建て、靖国神社を頂点とする大きな体系の中で勢力を強めていた神道界の動きに対抗しようとするものでもありました。

 真田山陸軍墓地内の納骨堂へ合葬される対象者は、第4師団に所属して各地に出征中死没した軍人・軍属の男女でした。合葬されている遺骨の数は8,249人分、小さな骨壷や骨箱などに収められていまも静かに眠っています。なお、「男女」と述べたのは、従軍看護婦など数人ですが女性と思われる方の遺骨が現に存在しているからです(2010年代初めに実施された全面的な納骨堂調査から)。

 陸軍は、1937年(昭和12)7月の日中戦争開始以来、戦争に関わって死没した軍人・軍属の遺骨は,個人墓を建てず、小さな骨壷に分骨し、忠霊堂あるいは忠霊塔に合葬していく事としていました。戦争になると、今後は多数の死者が出ると予想し、広大な場所と建造費を必要とする個人墓碑ではなく、遺骨を合葬した忠霊堂あるいは忠霊塔の形で行こうと考 えたようです。しかし、合葬を望まなかった遺族も多数存在したようです。ここに掲載する表は、第4師団管区で集められた軍人・軍閥の年次別に見た納骨数の推移です。

 第4師団管区というのは、正確に言えば大阪府と完全には一致していませんが、そこでの動員数は約50万人、戦没者は15万人に上ったと推測されています。ところが、1937年以降、終戦までに納骨された人の数は8249人と数えられました。これは、死没総数に比べたとき、かなり少ない数字と言わなければなりません。その原因はどこにあったのでしょうか。

《戦局の激化とともに集まらなくなった戦没者遺骨》

 1943年以降、戦局は日本に不利となり、その状況は44年、45年と大きく進行しました。文字通り戦局は絶望的となっていたのです。前の表は、年次別に納骨数の推移を書き出していますが、1942年までに比べて43年以降、とくに44年・45年の納骨数が伸びていない(と言うよりも、44年には絶対数も横ばい、45年ではわずか215人分しか納骨されていない)ことが示されています。

 これは、戦没者数の全般的推移と比例する数字ではありません。比較的しっかりと記録の取れている和歌山県伊都郡鞆淵村と大阪府池田市での実態調査を書き出し、それとの比較をしてみました。もう一度前の表をご覧ください。1943~45年が両市村と同じような変化で死没者が出ているのならば、その納骨数はどれほどになるのか、推定値を入れてみました。表中の赤字がその数字です。

 1943年から45年までの予想される納骨数は合計18,900人になります。それが実際には、2,321人に止まっているのです。おそらく、この差は、戦場から遺骨が送り返されなくなったことから生じたものでしょう。実際、南方戦線への移送中乗っていた輸送船ごとアメリカ等の攻撃を受け、船ごと死亡した軍人や軍属も多かった事が知られています。戦場で「玉砕」し、あるいは食糧不足に苦しみながら死没し、部隊そのものが崩壊したため,遺骨が戻らなくなった人も多かったことを考えねばなりません。

 まさに、納骨数の多さではなく、その相対的な少なさの中に、戦争末期の日本軍人・軍属の遭遇した悲劇が、示されていると考えられます。戦争の悲惨さは、思いもよらない形で示されたことに注目しておきたいものです。

 遺骨のない骨壺や骨箱には、多くの場合、写真をはじめとする遺品、位牌が納められるようになります。中には砂等が入れられ、なにもないというものも少なくありませんでした。

《遺骨のない骨壷や骨箱》

さて、どうにか骨壺や骨箱が準備され、遺骨を納めようとしたけれども、肝心の遺骨が存在しない事例も、この時期になると増えてきました。次の表は、遺骨の有無を年次別に書き上げたものです。  1942年は開封不能の骨壺が多くて確定できませんでしたが、1943年あたりから遺骨のない骨壺が増え始め、44年には遺骨のない骨壺の方が多数を占めるようになりました。45年もその傾向は変わってい ません。

 おそらく浄土真宗の信徒かと思われるのですが「懐中名号」(南無阿弥陀仏と文字を書いてそれをたてに三つ折したもの)を入れている骨壺もありました。
 同じデータを図にしたものも作成していますので、ご覧ください。

《耐震補強工事》

 財務省近畿財務局は、2021年度から参拝者の安全のため納骨堂の耐震補強工事に取りかかり、現在諸準備を進めています。工事の完成後は、納骨堂は外見そのままに補強されます。私たちNPO法人旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会は、納骨堂を日本の歴史を知る上で欠かすことのできない貴重な遺跡としてその保存体制の確立を願ってきましたが、大きくそれに向かって進むことと期待しているところです。

 ただし、棚に保管されている骨壷等の順番を崩さず、位置を変動させない事は大事な条件となります。遺骨に縁のある人びとと納骨堂との結びつきを支える上でも、このことは大事な意味を持っています。納骨堂に安置されている骨壷の主の名簿はきちんと調査され、それを使えば、いつでも対面が可能となっているからです。また、その配列の姿には旧陸軍が戦没者慰霊に持っていた考え方や、対応する姿勢が見えています。

ここまでの解説でも見てきたように、私たちは、納骨堂の実際から、日本の戦争、軍隊の姿を知る手がかりを得ることが出来るのです。工事後も現状の姿を維持する事、それが納骨堂を後世に残す上で大事な条件となっている事をなにとぞご理解下さい。

以下編集中