《目次》
大阪から始まった日本の陸軍組織 埋葬地の設置 定められた墓標の形と大きさ 生兵のこと
西南戦争と大阪 慌ただしい埋葬と建碑 全国にわたった死没者の広がりと戦争の意義付け 招魂祭
陸軍と脚気 軍医堀内利国
外地での本格的戦争と戦時陸軍埋葬規則の制定 第4師団の動員と将兵の死 陸軍埋葬規則の制定と陸軍墓地での建碑 軍役夫の墓碑
日露戦争について 日露戦争と第4師団 真田山陸軍墓地における個人墓碑の建立と合葬墓の出現 俘虜となったロシア兵の収容所と墓地
第1次世界大戦への参加と平時死亡者埋葬の継続 ドイツ兵俘虜の墓碑建立 墓地の縮小
「満州事変」 遺族らの建碑と墓地への奉仕 日中戦争の開始と個人墓碑の建立禁止 忠霊塔・忠霊堂(納骨堂)の建設運動と陸軍 納骨堂調査から見る戦争の悲惨さ
―求められる保存視点の確立―
1 墓地の始まり
《大阪から始まった日本の陸軍組織》
明治の初め、できたばかりの政府は、はやくも政府に直属する軍事力を創り出す必要性を認め、それを政治の中心から離れた大阪の地で築こうとしました。
1870年(明治3)ごろから大阪出張兵部省・兵学寮(青年学舎と幼年学舎。士官を養成するところ)・教導隊(下士官の訓練所)・兵隊屯所・病院・造兵司(兵器の製造所)・火薬製造所(これは京都府下の宇治の方に)などが広大な大坂城跡を中心に次々と設置されていきました。全国からたくさんの兵卒も集められ、日々訓練に明け暮れることとなったのです。
大阪はまちがいなく「軍都」への道を歩み始めていました。しかし、1871年に廃藩置県が行なわれてからは、軍の中心も東京に移され、また大阪以外にも仙台・東京・名古屋・広島・熊本に鎮台が設置されていきました。
《埋葬地の設置》
大坂陸軍所では、大勢の軍人が感染症の広がりに悩まされ、脚気にかかって命を落とす人もたくさん現れました。さらには、一方的で強制的な命令に苦しみ、西洋式の軍隊生活になじめない人びともたくさん出てきました。なかにはそれらが原因で死に至った人もあったのです。
陸軍は、こうして毎年生じる数十人以上の死没者の遺体を埋葬するため、1871年(明治4)の初め、城南宰相山の地を選んで兵隊埋葬地(墓地)を設置しました。真田山陸軍墓地の始まりです。面積は8,497坪(約2万8000㎡)ありました。一方、埋葬地には祭魂社(招魂社)も建てられ、年に1回は市民を集めて招魂祭も行なわれました。
《定められた墓標の形と大きさ》
1873年(明治6)、はじめて埋葬手続きが定められました。翌年その法則が全面的に改正されて、下士・兵卒の墓標の大きさと形が定められました。その基準はこの後も陸軍墓地がある限りずっと維持されます。
《生兵のこと》
1874(明治7)、生兵概則(せいへいがいそく)が制定されました。これは、徴兵で入隊した者に「生兵」として6ヶ月間の基礎的訓練を施し、この研修を終えて初めて兵卒(二等卒)になれるという制度でした。しかし、旧真田山陸軍墓地にはたくさんの生兵の墓碑が立っています。彼らは徴兵検査を受けたときには他の誰よりも体力があり、元気に溢れる若者でした。入営して半年以内、20歳前後の年で一生を終えたのです。もちろん戦争のないときでしたから戦死ではありません。生兵制度は1877年(明治20)まで存続し、その後は廃止されました。
2 西南戦争と真田山陸軍墓地
《西南戦争と大阪》
1877年(明治10)2月、西南戦争が勃発しました。政府に対する批判を強めていた鹿児島県士族を中心に挙兵し、政府もすぐに対応して大きな戦争となりました。
この戦争では、戦地となった九州へ素早く、大量に兵員や軍需物資を送れる中継地としての大阪は政府軍側の重要拠点となりました。竣工したばかりの京都-大阪-神戸間鉄道やすでに全国に張り巡らされていた電信施設も利用されました。政府軍(官軍)を指揮する征討総督本営も最初のうち大阪に置かれました。また、4月1日には官軍側の傷病兵を治療するため大規模な陸軍臨時病院も大阪に設置されます。大阪は九州に次ぐ戦場の様相を呈することとなったのです。
《あわただしい埋葬と建碑》
設置以後6~7年しか経っていない真田山の兵隊埋葬地には、大阪陸軍臨時病院で治療を受けても快復できず死没した将校・下士(かし)・兵卒等の遺体がつぎつぎと送り込まれ、その上に墓碑が建てられることになりました。しかも、戦争終結後凱旋する船の中で広まったコレラ菌に感染する人もたくさん出現しました。コレラと見做された患者は死後すぐに火葬され真田山の埋葬地に送られてきました。1877年3月から9月まで6ヶ月あまりの期間で両方をあわせ920人以上にのぼります。
《全国にわたった死没者の広がりと戦争の意義付け》
真田山の兵隊埋葬地に埋葬された人たちの所属部隊は、全国すべての鎮台や近衛兵に及んでいます。これらの墓碑群を見れば、政府が当時動員可能であった兵力を全国にわたって集めていたことがすぐに理解できます。さらに、その墓碑側面に刻まれた「鹿児島県賊徒征討」という文字からは、政府が「賊軍」征討の戦争と位置付けていたことが窺(うかが)われます。つまり、旧真田山陸軍墓地は、そうした政府の考え方と対応の実際、それから、全国各地の人びとの尊い命の犠牲がそこにあったことを今に伝える歴史的遺跡となっているのです。
《招魂祭》
西南戦争のあと、大阪の中之島には大阪鎮台の将校らが巨大な戦争記念碑である明治紀年標を建てました。軍は、政府のために命を捨てた者として官軍側の戦没者を称え、その霊を慰めて、戦争自体を正当化しようとしたのです。一方、民間主催の招魂祭では、戦争の進む中で多くの市民に西郷軍への同情も生じていましたから、軍主催の招魂祭と同じであったかどうか、今後の研究が求められているといえるでしょう。
3 脚気との戦い
《陸軍と脚気》
軍医たちは医学・疫学を学びましたが、どうにも理解できない病気が脚気でした。白米を主食としない欧米の軍隊では見ることのない病気だったこともあります。
脚気は進行すれば人の命を奪う恐ろしい病気でした。心臓を麻痺させ、あるいは腎臓に大きなダメージを与えることも少なくありませんでした。ビタミンB1不足という、いまでは常識となっているこの病気の原因が当時はわからなかったのです。
《軍医監(ぐんいかん)堀内利国》
軍医の堀内利国は、監獄で囚人に麦飯を食べさせるようになって以後、脚気にかかる者が大きく減少している事実に注目しました。そして、理由はわからないが、原因は食事にあると考え、1884年(明治17)以後、鎮台でも麦と米を混ぜた食事を兵たちに供してみました。その結果、同じく大きな効果があることがわかったのです。この方法は熊本鎮台や近衛兵などでも受入れられ、それぞれ大きな成果を上げたのですが、陸軍軍医全体の方針にはなりませんでした。10年後の日清戦争ではふたたび米食中心になったところ、戦地で脚気にかかり死亡する人も多くでました。
4 日清戦争と真田山陸軍墓地
《外地での本格的戦争と戦時陸軍埋葬規則の制定》
1894~95年(明治27~28)の日清戦争は、朝鮮に対する指導権をめぐって清国と争った戦争でした。この戦争では、中国大陸や朝鮮半島へ、そして講和後には日本の領有が認められた台湾を統治するため同地にも兵が派遣されました。日清戦争は近代になって日本以外の地を本格的な戦場とする最初の本格的な対外戦争となっただけでなく、戦後の植民地経営においても、現地住民の長期にわたる抵抗に直面する歴史の始まりとなったのです。
陸軍は、日清戦争の直前に戦時陸軍埋葬規則を制定しました。死者は戦場で埋葬または火葬(合葬もあり)できるようにしたのです。ただし、下士以上は火葬もひとりひとり個別に行なわれましたが、兵卒についてはひとまとまりにして一緒に荼毘に付すことも多く、遺灰が特定できなくなっていたことも多々あったようです。
《第4師団の動員と将兵の死》
大阪に拠点を置く第4師団は、大陸に上陸したときには講和が結ばれた直後でした。それで、清国との実戦は免れたのですが、講和後の占領地警備と、講和で領有が認められた台湾統治のための出征を命じられました。そこで多数の死没者を出すこととなります。死因の多くは脚気をはじめとする病気であり、現地住民との戦闘での死没でした。兵站病院での死を明記された墓碑がたくさん建てられています。1896年(明治29)には「台湾澎湖島駐屯軍人軍属埋葬規程」が出され、「以後台湾で死去した者の墓は台湾に建立する」との方針が打ち出され、日本内地への遺骨等の送付は止まりました。
《陸軍埋葬規則の制定と陸軍墓地での建碑》
1897年(明治30)、陸軍埋葬規則が制定され、遺体は、戦地で火葬されても後必ず陸軍埋葬地に改葬するものとされました。また、その埋葬地は所属する部隊が本拠を置くところの陸軍墓地にすることともなりました。第4師団では軍から遺骨を受け取り立派な墓碑を建てていた遺族から改めて遺骨の一部をもらい受け、あるいは遺骨が手に入らなくても個人墓碑を整然と立て並べました。
日清戦後の個人墓碑建立は死没した個人をひとりひとり偲ぶというよりも、第4師団の功績とそれに所属する兵卒を一体として顕彰する性格が強く出ています。そのことは、墓碑側面の記載を死亡年月日・死亡場所など簡略なものとし、個人よりもどの部隊に所属するかを優先した記述のあり方によく示されています。
《軍役夫の墓碑》
日清戦争と台湾領有に関わっては、軍役夫等の墓碑が立ち並んでいることも注目されます。軍役夫と書かれたものが最も多いのでそうまとめておきますが、看病夫・蹄鉄人・酒保請負人など様々です。
陸軍は、軍隊に必要な物資の運搬などを民間の人びとの力に頼ったのです。軍みずから直接雇用することもあったし、雇用を仲介する業者に依頼することもありました。しかし戦地では、軍役夫にも危険はついて回ったのです。
軍役夫全体は全国でどれほどの数に上ったのか明確にはわかりませんが、数万人から十数万人と指摘されています。ただし、個々の軍役夫と第4師団との関係はこれからの調査課題として残されています。
《清国兵の墓碑》
現在の旧真田山陸軍墓地には日本の俘虜となった清国兵の墓碑が6基立っています。清国兵俘虜は全体でおよそ1,000人。日本に連行され、1894年9月から95年6月まで約10か月間、収容されました。
清国兵俘虜は、日本人庶民の関心を大いに引きました。大阪でも彼らの到着日など多数の見物人が出て、多くは侮蔑的でしたが、口々に論評を加えています。
5 日露戦争と戦病没者合葬墓の建碑
《日露戦争について》
1904~05年(明治37~38)には朝鮮・満州の支配権をめぐって日露戦争が戦われます。日本は当時世界第一の陸軍力を誇ったロシアに戦いを挑み、平時の何倍にも当る108万に上る兵員を動員しました。多額の軍事費も、増税の実施や欧米等からの借款などを得てどうにか賄いました。
戦いは陸海軍ともに日本軍優位のうちに推移しましたが、日本軍だけでも死没者は8万4435人(靖国神社)に上り、「廃兵」(戦争で心身に障害を負った人)も数多く、日本の各地で親しい人の死を悼む人びとが溢れました。また、国民の生活にも、国家の財政にもたいへんな疲弊を招きました。
《日露戦争と第4師団》
日露戦争では、全国の師団数は近衛兵も含めて12師団あったのですが、そのほかに4師団をつくり、合計16師団で戦いました。第4師団はこの戦争では基本的には第2軍に属し、1904年5月には遼東半島に上陸、金州・南山、遼陽、沙河、奉天と激戦を重ねました。また、第4師団に属する後備歩兵第4旅団は、第3軍に属し旅順攻撃に参加しました。
第2軍での第4師団関係の死没者は3,490人、第3軍での同死没者は864人となっています。新聞は、戦死した兵士の遺族を訪ね、その人物のひととなりや国家への思いをこぞって書き連ねました。
《真田山陸軍墓地における個人墓碑と合葬墓の出現》
日露戦争に関する死没者の個人墓碑は、旧真田山陸軍墓地では現在413基が確認されます。一方、1897年(明治30)の陸軍埋葬規則に基づくならば、戦後には4000人以上の個人墓碑の建立が求められていました。しかし、その数があまりにも多いため、第4師団ではそれらをまとめた合葬墓を建立するという方法を軍上部に提出し許可を得るのです。
合葬墓とは、墓碑を士官・准士官・下士そして兵卒の4階級に分け、少しずつ大きさを違えてそれを向かって右から4基並べて建てたものです。各墓碑は、正面にそれぞれの階級を明示し、側面に建碑した年月日が記されました。
建碑された4基の墓碑は美しく並び立ち、第4師団の功績顕彰には十分な効果を発揮するものとなりました。しかし、個々の将兵についての記録は碑面に記されず、外から見ただけでは何もわかりません。ここでは、個人よりも国家が前面にたち、個人の死は、日本のために死んだ者として意識の上で位置付けられたのです。戦争の後には師団長など軍の首脳がこの墓石の前で参拝する姿が新聞などで紹介されていきます。
《俘虜となったロシア兵の収容所と墓地》
日露戦争では多くのロシア兵が俘虜となり、日本に送られてきました。大阪府でも濱寺に多いときには2万人もの人びとが収容され、中には死去する人たちも少なくありませんでした。濱寺に近い泉大津地域の住民が自分たちの共同墓地のうちから墓域を提供したため、死亡者はそこに埋葬されることとなりました。大阪に設置されたロシア正教の司祭がその葬儀の遂行に力を尽くしています。
6 日露戦後の真田山陸軍墓地
《第1次世界大戦への参加と平時死亡者埋葬の継続》
日露戦争が終結した1905年(明治38)から日中戦争の始まる1937年(昭和12)までの32年間、日本は第1次世界大戦への参戦に伴う対ドイツ戦争、シベリア出兵、満州事変といった外国との戦争を経験しました。しかし、大阪に拠点を置く第4師団には、第一次大戦中、中国山東省にあるドイツ領の青島攻略戦に、独立歩兵1個大隊と深山重砲兵聯隊が参戦し、少なくとも歩兵からは1人、重砲兵聯隊からは2人の戦死者を出したことを除き、基本的にそれらへの動員がなく、平和な時期が続きました。
一方、この間、真田山陸軍墓地では156人の平時死亡者の墓碑が建てられ続けています。あいかわらず日常における兵営のあり方が問われる状況が続いていたようです。
《ドイツ兵俘虜の墓碑建立》
ドイツとの戦いでは、日本軍の俘虜となったドイツ兵ふたりが大阪で死亡し、遺骸は真田山陸軍墓地に葬られました。当時日本は文明国として国際的に認められるため丁重な埋葬式を墓地で行ない、一定の墓域を持つ墓碑も建てました。
《墓地の縮小》
大正期から昭和初期にかけ、大阪は都市的な大発展を遂げます。こうしたなか、陸軍は1928年(昭和3)に真田山尋常小学校用地として墓地の南半分を大阪市に譲渡しました。学校用地に立っていた墓碑はずっと北の方に移され、その下の遺体等とともに埋め直されました。こうして、真田山陸軍墓地の面積は大きく縮小され、墓標の間隔が縮められるなど、大きく景観を変えることとなりました。しかし、階級による埋葬区画の区別とか、墓石の形や大きさに関する考え方には何の変更も加えられませんでした。
7 十五年戦争と真田山陸軍墓地
《「満州事変」》
1931年(昭和6)9月、中国東北部(満州)の関東州と南満州鉄道周辺地域の警備に当っていた関東軍は、南満州鉄道線路を謀略によって爆破し、軍事行動を起こして中国東北部を一気に支配下に置きます。政府はこれを「満州事変」として追認し、「非常時」を宣言しました。東アジアや南アジアでは、こののち日本の敗北に至る15年間、さらに第2次世界大戦終了後は、米国とソ連の対立という世界体制の下、中国内戦、朝鮮戦争、さらにはベトナム戦争などへと続く長い戦争の時期に入るのです。
《遺族らの建碑と墓地への奉仕》
第4師団は満州事変に動員されることはなかったのですが、朝鮮軍として第20師団が新設されたとき、その構成部隊である第77聯隊には多数の兵員を供給していました。だから、朝鮮軍から出た戦死者の中には大阪出身者もいたのです。
遺族らは、満州事変における戦死者の墓碑を真田山陸軍墓地に建立することを願い、軍はそれに許可を与えました。ちなみに、真田山陸軍墓地を訪れ清掃奉仕などをする人びとも、このころにはたくさん現れ、美談として新聞で紹介されるようになります。
《日中戦争の開始と個人墓碑の建立禁止》
1937年(昭和12)7月から始まった日中戦争は、国と国との戦争として、かつてなかった大規模な戦争となっていきます。日本軍は、中国の都市を中心に攻勢を強め、南京を陥落させたときには多数の捕虜も民間人も区別せず殺害するなどの暴挙も起こしました。しかし、停戦の見込みを失い、中国に大軍を派遣したまま、占領地の統治も不安定な状態に苦しむこととなるのです。
陸軍省は1937年12月、陸軍墓地における個人墓碑の建碑を取りやめる方向を示唆し、翌年には陸軍埋葬規則を廃止して陸軍墓地規則とし、墓地内での個人墓碑の建立を取りやめて合葬を基本とすることとします。日中戦争終結の見込みが立たない中、増大する戦病死者の埋葬・慰霊の問題に対処する方針を打ち出しておこうとしたのです。実際、陸軍墓地内での個人墓碑の建立はごく一部の例外を除き、1938年以後は行なわれなくなります。
*図6 日本軍の動員数推移(作成中)
《忠霊塔・忠霊堂(納骨堂)の建設運動と陸軍》
忠霊塔または忠霊堂の設立は、はじめ民間からの運動として始められました。1939年(昭和14)7月、大日本忠霊塔顕彰会が設立されると、陸軍省はこれを支援し、あわせて陸軍省の合葬墓塔建立計画と合流するように方向付けていきます。初期のころには各地仏教会等の運動もあり、立派な塔形式を持つ忠霊塔がつくられる地域も出てきました。しかし、1941年(昭和16)12月、米英等との戦争を仕掛けたころからは、日本経済の行き詰まりもあり、簡易な忠霊堂形式になる事例が増えたようです。
真田山陸軍墓地内の忠霊堂は、1943年(昭和18)8月大阪府仏教会が寄付を募って建設し、それを陸軍に寄付したものです。
《納骨堂調査から見る戦争の悲惨さ》
真田山陸軍墓地内に建造された忠霊堂(戦後は「納骨堂」)は、堂本体部分の床面積は横幅約21.6㍍、奥行約7.5㍍で、概算162㎡を有し、床から天井までの高さ約5.6メートル、壁側と中柱にそれぞれ13段の棚を全部で54の区画に分け、一棚に18人前後の遺骨を安置するとして1区画あたり234人、全部で12,636人分の遺骨が安置できるようにした巨大な規模をもっていました。しかし、2010~12年度の悉皆調査の結果によれば15万5千人と言われる死没者総数に対し、全部で8,249人分の遺骨が数えられただけ。しかも、戦没者が急増する1944年は実数横ばい、45年はかえって減少しています。戦地からの遺骨の還送自体も多くは滞るようになった結果です。敗戦を重ねる戦場の悲惨さは、安置された骨壺の多さにも示されていますが、その少なさの中にかえってよく示されていると言えるでしょう。
8 敗戦と陸軍墓地の終焉 ―求められる保存視点の確立―
1945年8月15日、日本が連合国に対して敗戦を認め、ポツダム宣言を受諾して戦争が終わると、連合軍によって日本の陸海軍は廃止され、平和と民主主義、そして国民主権を理想とする国家への改造が進められることとなりました。陸軍墓地を維持し経営する目的も根本から再検討が求められ、戦前・戦中においては当然と思われていた戦没者慰霊の理念に対する批判的検討が求められることとなったのです。
しかし、戦後初期の段階では、新たな国の理念との整合性は必ずしも明確にされることはありませんでした。そして、ともかくも維持することを前提として、その所有と管理、さらには祭祀の主体をめぐってのみ検討が進められました。やがて国が所有を続け、管理は地方自治体に委ね、さらに祭祀は遺族会などの民間組織に任せる墓地、あるいは所有も管理も民間の寺院や団体にそれを移す墓地など、さまざまな形がとられることとなりました。
墓地の姿も大きな変貌を余儀なくされていきます。市民霊園などに変えられて戦前の姿を失い、やがて年月の経過とともに社会から忘れられた存在となる墓地も少なくありませんでした。一方、遺族も高齢化し、代替わりが進むと、墓地維持の名目もあいまいとなって、急速に荒廃していく墓地も現われてきました。現在は、このような変化が進む中、改めて今日に残る旧陸軍墓地を保存する意義をどう見いだしていくのか真剣に問われる時代になっていると言っていいでしょう。
旧真田山陸軍墓地は、2000年を前後する時期において、その規模といい、形といい、また創設が日本最古であることも重なって、広く注目されるようになってきました。学術的な調査が今日まで継続して行なわれ、貴重な歴史遺跡であることも明らかになりつつあります。この墓地に来て、近代日本の戦争と軍事について思いをはせる人も増えてきているのではないでしょうか。
この墓地の保存をどう実現させるかは、全国の旧陸軍墓地さらには軍事・戦争遺跡の今後の生かし方と関わる大事な意味を持つものになってきていることを真剣に考えていくべき時を迎えていると言っていいでしょう。